ボストンの語学学校から、Cypress Collegeそして、UC Berkeleyへ進学し心理学を専攻して学士号を取って帰国するまでのエピソード

The Japanese Clubについて

  • Cypress CollegeにThe Japanese Clubを創部した経緯と活動について写真を交えて紹介します。

目的
The Japanese Clubを創部しようと考えたのには、いくつか理由が有り、下記のような目的が有りました。
1.日本人の留学生同士の結びつきを強めて、お互いに助け合える環境を整える。
2.日本人とその他の学生同士の結びつきを強めてお互いに助け合える環境を整える。
3.Cypress Collegeの日本語教授などと連携を取り日本人の学生が日本語を他の学生に教えられる環境をつくる。
4.日系のコミュニティと連携をとる。
5.日系企業に働きかけて、奨学金やインターンシップの制度をつくる。
6.部の活動として定期的にボランティア活動(老人介護施設で折り紙を一緒に作ったり、Cypress Collegeや周辺の高校で日本語を教えたり)が出来る環境を提供し、地域社会に貢献が出来て、4年制大学編入を目指す学生がその経験をPersonal Statementに書けるようにして、日本人学生でも4年制大学編入ができやすいようにする。
7.4年制大学編入を目指す学生が部の役員に就くことで、Personal Statementにその経験を書けて、日本人学生でも4年制大学編入に有利になるようにする。

きっかけ
目的1や目的2の達成を最優先にしていました。Cypressに来てから、車を買ったり、アパートを友人と借りるのに大変苦労しましたので、困っている日本人を助けられるシステムをClubという形で作ろうという思いは、入学してから1年くらい経過した時点でありましたが、4年制大学への進学を第一目標にしていたため勉強に忙しく、行動に移せないでいました。しかし、UC Berkeleyへの入学が決まり、Collegeでの成績を気にすることなく、精神的・時間的余裕が1セメスターだけ出来ましたので、Club創設の計画を仲間と共に立てて実行に移すことにしました。

日本人留学生
日本人学生の数は少ないCollegeでした。私の受講した40人規模の留学生用の英語のクラスには、自分を含め日本人の学生は二人だけでした。それでも日本人の生徒数人とは、The International Clubの活動などを通したり友人の紹介などで知り合うことが出来ました。Cypress Collegeには、Air Lineのコースがある関係で、CAを目指して勉強しているいる日本人学生も数人いました。しかし日本人はお互いに助け合うこともなく、孤立しているように見えました。

日系人
数十年昔は、Cypress Cityにはたくさんの日本人が住んでいて、農地を所有しており、学校周辺には、日本人の所有するイチゴ畑が広がっていたそうです。今でもKatella Avenue等の辺りにたくさんの日本企業があるのは、日本人が多く住んでいたからだと聞いたことが有ります。今でも日系人はたくさん居住しいるようですが、既に3世や4世、5世の代になっていて、日本語をしゃべれる人たちもほとんどいないという状況で、現在では、日本人街などと呼ばれるものは存在せず、日本人Communityと言えるのは、Orange County Buddist Churchのみのようでした。ただ、日系人で日本に興味が有ったり、日本語を勉強したい人たちもたくさんいました。Cypress Collegeには素晴らしい日本語教育プログラムが存在していましたし、Orange County Buddist Churchでは日本語教室が有り、子供たちに日本語を教えていました。合気道教室や、生け花教室などもそのお寺には存在していて日本文化を伝承していました。このような人たちと日本人留学生を結びつけることが出来るのではないかと考えたのが目的3と4の理由であり、上記のように、日本企業も学校周辺にはたくさんあったので、目的5についても高い目標でしたが、実現の可能性があると感じていました。

韓国人街とベトナム人街
日本人留学生の少なさと対照的だったのが、韓国人留学生の多さと、ベトナム系の生徒の多さでした。Collegeの近くにGarden Groveと呼ばれるエリアがあり、韓国人街を形成していました。Garden Groveの南の、Westminsterはベトナム人街として知られていました。韓国人は、韓国人同士助け合って暮らしてましたし、ベトナム人もそうでしたが、日本人はお互いに孤立して暮らしているように見えました。

The International Clubの特徴
率直に言うと、私がThe Japanese Clubを立ち上げる時、The International Clubの顧問を務めていた留学生事務局の学校職員たちは、反対していました。The Japanese ClubがThe International Clubと目的や会員層が重なる部分が多いと考えられていたからです。本当にCypress CollegeのThe International Clubは素晴らしいクラブで、私も積極的に活動に参加していた学生でした。会員は主に留学生で、韓国人、ベトナム人、フィリピン人、が多いクラブでした。懇親のため月に一度は、ボーリングやビーチに行ったりして、絶好の情報交換の場でしたし部活動は思い出深いものばかりです。

The International Clubとの違い
The International Clubはすばらしい部でしたが、ボランティア活動のプログラムが有りませんでした。それから、奨学金も有りませんでした。部員の学生層も日本人以外の留学生が主体で、アメリカ人は1人、2人という感じで、日本人も2、3人しかいませんでした。The Japanese Clubは、日本人、日系アメリカ人、日本に興味のある日系以外のアメリカ人、海外からの留学生で日本に興味がある学生を会員のターゲットにしていましたので、The International Clubと対立するというよりも、連携していくことでThe International Clubを補強することが出来ると考えていました。新しいクラブの創部に伴い部の役員職を務めることが出来る学生が増えて、4年制大学への編入学に有利になる学生が増えることも目的としていました。The International Clubの顧問たちも最後は理解を示してくれました。

T教授
T教授は日本語学の教授で長く日本語教育の為にCypress Collegeで教鞭をとられている教授です。日本で生まれ育った方で、年齢は60歳を越えておられると記憶しています。不幸にも私と、T教授は創部の経緯を巡って対立してしまい、その対立がThe Japanese Clubの最大の障害になってしまいました。部の立ち上げを決めた時期が冬休み中で、メールで先生と連絡を取り、部の顧問になっていただけるように頼みましたが、直接会わずにメールで頼んだことが礼儀を失していると受け取られてしまいました。他の部員と話し合って、対応を決めたのですが、先生と対立してしまったのは、今考えると自分の不徳に責任がありました。長く日本語学と日本文化の発展の為に尽力してこられた先生に対して礼を尽くすべきでした。結局Clubと先生との話し合いでは解決できないほど対立してしまい、The Language DepartmentのDeanのMr.Yに間に入っていただいて和解するという事になってしまいました。

顧問
日本語学部門のトップであるT教授との対立は、日本語学部門全体からの協力が得られないという事を意味していました。Cypress Collegeで部活動を立ち上げるには、最低一人の学校職員や教授に顧問を引き受けていただく必要が有りましたし、部が学校外で活動をするときは、絶対に顧問が付き添わなくてはならないという決まりがありましたので、部には顧問数人が必要不可欠でした。私の知り合いのJ教授が一人顧問に名乗りを上げてくれましたが、他にも数人顧問を集めるために日本の名字を持つ教授4,5人にメールを送り、部の目的を説明して協力を頼みました。結局他に3人の日系アメリカ人教授と1人の日本人教授にもクラブの顧問になっていただけました。

アニメクラブ
Cypress Collegeには、アニメクラブというT教授が顧問を務めるクラブが存在していました。活動とターゲットにしている学生層の点で、、T教授はアニメクラブとThe Japanese Clubとに重複する部分が多いと考えておられました。アニメクラブの存在については私も前から知っており、活動の内容も調べていましたが、メンバーのほとんどはアメリカ人で、週に一度会員が集まって日本アニメを英語字幕付きで鑑賞するというのがアニメクラブの活動で、結構マニアックなメンバーが集まっているクラブでしたので、The Japanese Clubとは全く性質が違うクラブであるというのが私の認識でした。私はアニメクラブとも連携を取ってお互いに協力できると考えていましたが、T教授には理解してもらえませんでした。

現在
以上のように、学生、日本語学部門、留学生事務局を含めたCollegeの資源を活用し、日系企業や、老人介護施設、仏教寺院等を含めた地域コミュニティーと連携して全てのCypressに暮らす人たちの生活を豊かにするのがThe Japanese Clubを創設した当時の私と部員たちの夢でした。T教授と対立していたこと、部長である私が一学期の間しか運営に参加できなかったことなどが原因で、上記に掲げていた目標は、達成できなかったことの方が多く、The Japanese Clubは、私がUC Berkeleyに編入学すると無くなってしまいました。後悔することも多いのですが、このクラブの経験は、UC Berkeleyでの合気道部創設に直接的に活かされますし、自分の人生にとっても非常に素晴らしい思い出です。協力してくれた人、また不幸にも対立してしまった人達も含めて、すべての関係者の方たちに対して感謝しています。

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初めてのミーティング

記念すべき、第一回目のミーティング時の様子です。場所は、校内のCafeteriaです。この写真を見ると、少し悲しくなるのは、T教授との軋轢のため、ここに映っているおよそ半分くらいの学生たちがThe Japanese Clubから離れていってしまったからです。日本文化に本当に興味があって、長く日本語のクラスをCollegeで受けていた人たち、特に日系アメリカ人の学生たちの多くがClubから離れていってしまいました。T教授と対立してしまったことは自分の一番の反省点ですし、The Japanese Clubに期待してくれた全ての人たちに申し訳なく思っています。

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誕生日会兼Potluck

部員の誕生日のお祝い兼Potluckを校内の庭でしました。各人が、出身国の料理を作って来てくれました。日本人の学生がお好み焼きやたこ焼きを作ってくれて、日本の味を紹介することが出来たことが嬉しかったです。

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ラーメン屋で誕生日会

部員の誕生日のお祝いをラーメン屋で催しました。ラーメンを含め日本料理はアメリカで大人気でした。

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老人介護施設でボランティア

老人介護施設で入所者の老人たちに、折り紙を部員と一緒に教えた時の写真です。

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老人介護施設でボランティア

老人介護施設で入所者の老人たちに、折り紙を部員と一緒に教えた時の写真です。この介護施設には、日系人の老齢の女性が入所されていて、私を含めた部員と懐かしそうに日本語でお話しされていたのを覚えています。The Japanese Clubは1学期しか続きませんでしたが、このようなボランティア活動が出来たことは本当に良い思い出です。

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日本語教室

Collegeの一室を借りて、定期的に日本人学生が日本語に興味のあるCollegeの学生に日本語を教えていました。

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日本映画

宮崎監督の「崖の上のポニョ」を近くの映画館へ観に行った時の写真です。

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Club Rush

The Japanese ClubがCypress CollegeのClub Rushに参加した時の様子です。


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